立ち位置

開会役に立てたか悩んでいるけど、以前までそんなにつらい仕事をしていないと感じていたから役に立てていないのだと思っていた。けれども今回は結構辛かった、でも多分今回も役に立てていない。なんとなくだけれど、下で動くうちは英会陰に役に立てたと思えることは無いのだと思う。そんな気付きを得てしまった。

できるだけ邪魔をせず彼のやりたいことをできるように可能な限り手伝いをしたいので会って、主体になりたいわけではないので。だからと言ってやめることもないし、このまま永遠にこの感覚はまとわりつくと思う。つくづく救われることのない。この感覚は慣れたり失ったりすることもなさそうなので、僕が愛想をつかされるまでこのままだね。

どうしようもない終わらせ方

私は望まれて両親の家族となったのだと思う。小さい頃はよく可愛がってくれたし、親戚も私によくしてくれた。きっと若い唯一の男子だったからだとも思うが、私は幸せだった。

しかし、私に物心がついてくると、両親は私をよく叱るようになった。これだけならなんて事のない通常の、他の家庭と変わらない教育の範疇だろう。しかし、それは段々と過激になり、ついには暴力を伴うことが当たり前となってゆき、私は父が手を上に持ち上げるたびに身を小さく、惨めにすくめていた。そのころから段々と気が付き始めた。私は両親にとって望んだ子ではあるが、望み通りの子にはなれなかったのだと考えるようになった。

 

いつもお前のためだと言われた。いつも将来のためだと言われた。よくできた未来など望まなくなっていた。将来の夢など、明日生きているかわからない人間が持てるはずもない。私は終わりを望むようになった。

 

私には妹がいる、五つ年の離れた妹だ。小さい頃は皆から愛情を注がれているのがよく分かった。きっと私とは違うと思った。彼女なら望み通りの子になれると思った。だが現在ではあまり両親の望み通りの子供だとは思わない。少し性格に難があるのはだれの目から見ても明らかだった。しかし、何かが違った。両親は彼女にいまだに愛情を注いでいる。暴力も振るわないし、欲しがるものは大方買い与えていた。

なぜだ、何が違う。どうして私と同じにならない。女だからか、それとも私が男だからか。そんなわかるはずもない答えを求めて悶々としていたころ、ふと家族のアルバムを見つけた。普通の家庭なら両親と一緒に過去の写真を眺めることもあるのだろうが、私には無かった。正確には、私が生まれる前の写真を眺める機会がなかったのだ。

 

好奇心かもしれない、今でもなぜそう思ったかはわからない。私は親の留守を狙い、アルバムを開いた。古いものだと1970年からの写真が納められていた。新しいほうから確認していく。私が小学生の頃の写真、妹が生まれたとき病院で母と撮られた写真。私の良く覚えている風景が写っていた。ただ、ただ、ただ、ただ、ただ、ただ、ただ、ただ、ただ、無かった。私は2000年の1月生まれだ、だから、1999年後半にはお腹を大きくした母の写真があるはずなのだ。私を身ごもっている母の写真が。なかった。私が病院で生まれたとき母に抱かれている写真も無かった。私が生まれたときの写真は確かに存在する。リビングに飾られていた。しかしそこには生まれたての私しか写っていなかった。

 

直接問いただしたわけでも、DNA鑑定を行ったわけでもない。だから真相はわからない。偶然その期間写真を撮らなかっただけかもしれない。だから私はあえて物色したような痕跡を残し、アルバムをもとの位置へ戻した。

 

しばらくして再び両親の留守の間を狙い、アルバムのあった場所を調べた。なくなっていた。どうしてそんなことをしたのだろうか。見られたくなかったからに決まっているだろう。もう、そうとしか思えなくなっていた。

 

その時ふと思った、劣悪な精神状態下での被害妄想に過ぎない仮説だが、妹はなぜああで、私はなぜこうなのか。簡単だ、私は祝福されて生まれた子ではないのだから。

 

父親の女癖の悪さは知っていた。複数の女性と関係を持っていることも、知っていた。そのことも私の仮説を裏付けて行った。そうか、そうだったのか。それならば仕方があるまい。私が愛情だと思っていたものは哀れみか、自分の思い通りに事が運んでゆくことへの満足感ゆえか。愛情などどこにもなかった。

 

だから私はこの事実に気が付かないふりをし、両親を両親と思わなくした。だって、愛情のない親子など存在してよいはずなどないのだから。

 

そうして数年が過ぎたころ父の事務所で給与明細を好奇心からか覗いてしまった。もちろんこれはよくないことだと分かっている、アルバムとはわけが違うのだ。しかしどうして、こういった時の私の勘というものは的確に情報を引き当ててしまう。

 

私の父は会社の経営者だ。といっても大きなものではなく、所謂家族経営と呼ばれる小さな会社だ。だから当然給与明細の役員報酬の欄には知った名前が並んでいた。ただ一人を除いて。

 

私と同じ姓を持つ知らない女性の名前を見つけたのだ。その時、アルバムのことをすぐに思い出した。

仮説の域を出ないどうしようもないB級映画のような推理。でもどうして、それが現実味を帯びてきてしまった。この人物について調べるべきか、その結論はいまだに出ていない。

いや、結局調べることはないだろう。私は意気地なしだ、調べて、それでどうする。何かが変わるわけでもあるまい。私はもう20歳を過ぎてしまった。仮にこの人が本当の親だとしても、今更親の愛情など求めてどうする。

もう、終わったことなのだ。私に親の愛情などなく、唯々今は終わりを求めるのみなのだから。

 

ではなぜとっとと首を括らないのか。理由は非常に単純明快で、怖かったのだ。死ぬのが。何もせずに死ぬのが。怖くて怖くてたまらなかったのだ。嫌で嫌でたまらなかったのだ。

まだ何かあるはずだ。私の望む終わりが、私の望む死に方が。

なぜ生きるのかではない、どう死ぬのかを選ぶのだ。私はそれまで死なない。死ぬことはできないのだ。

 

世界中の人間が私を必要としないだろう、世界中の誰もが私を忘れようとするだろう。それでも、それでも何かあるはずだ、私の素晴らしい終わりが、死が、あるはずなのだ。

私はそう信じて疑わない。

世の中のためには私など速やかにいなくなってしまったほうがよいのだろう。だがそんな終わり方はまっぴらごめんだ。

 

私はそういう、どうしようもない人間なのだ。

しあわせなせかい

皆自分の世界を描いて構築して実行していく。私自身そばにいるが決してその世界にはなれない。たとえるなら、これから絵を描かれようとした画用紙に乗っかっている邪魔な埃のようなものだ、誰もその上から絵の具を乗せようとしないので払われるのがお決まりだろう。今も向こうの部屋で楽しそうな会話が聞こえる、そこに私は行けない。行っては、そんな気がする。

友好的に接し、友人として、知り合いとして、そういう風にかかわっていくすべもあるのだろう。しかし、私はそれができない。そも友人とは?愛とは?損得勘定のみで測れないそういった関係はどのようにして出来上がるのか?私にはそこが欠けている。勿論、損得勘定に当てはめることもできるのであろうが、それは一部を当てはめただけであってすべてではないのだろう、でもそれがわからない。損得勘定以外の他すべてがわからない。祝福とは?如何にして得られる?
こういった問答がすでに意味をなさないほどに私は遠くにいることもすでに分かっている、でもどうしてか憧れてしまう。どうしようもないのに、私は向こうの部屋に帰れない。誰かに止められたわけでもなく、自分でそう決めてしまっているのだ。もう手遅れだ、私は私の世界を作れない。画用紙を用意しても絵が描けない、筆を持つことを諦めてしまっている。そんな人間、どうして救われようか。結局のところ、自業自得なのだ。自らの精神性に原因があることも、ずっと前から分かっていた。解決に移さなかったのは己がもう終わっていたことに気が付いていたからだ。つみなのだ。どうあがいても雪ぐことはできない。

皆が美しい、私はその輝きがたまらなく好きだ。しかしそれは同時に私に光を当ててしまう、私のどうしようのない部分に、光を。

しかしその輝きにさらされようと、その輝きに身を焼かれようとも私はその輝きを守りたい。守るためだったらなんだってするし、私の命さえ惜しくない。皆の描くこれからのために私はどうなってもよいのだ。だから、その時までせめて傍に。それが私の願い。

やめるとあきらめる

眠さ故か疲れか、もしくは深夜の勢いか。生きることについてあきらめることを他人に推奨してしまった、酷く後悔している。

これは私自身に適応されているものであって一般的な人間の価値観にはそぐわないし、あのような場で話すことでもなかった。大いに反省している。

 

それに、おそらくではあるが意味が正しく(?)伝わっていない。だって、「生きることをあきらめば楽になるよ」だ。これではくたばってしまえと言っているようなものじゃないか。あまりにもひどい。

 

本人や誰かに見られることを期待しているわけではないが説明させてほしい、私自身がどういう考えで死に向かいゆくのかを。

ちょうど、どこかに残しておきたいとも思っていたところだし。

 

私の考えではおおよそ一般的な人間は”生きるために”生きているのだと考えている。

”生きるために”とはつまり、生存のために心身の健康に気を使い明日のために今日働き、明後日のために明日働くといった、継続を前提とした毎日を送っているものだと思う。この継続が、継続のための日々が生きることと考えた。

 

そして、私の話した生きることをあきらめることとはつまり、死ぬために生きるという事で、継続を前提とせず、終わりに向かってどうやって進むかといったものだ。そして終わりとはもちろんいつやってくるかは分からない。だから日々が人生最後の日だと思って生きているし、自分でそうしてもいいと思っている。

これは決して悲観的なものではなく、定められた目標に向かってそれをいかに達成するかというものであると考えてほしい。死とは終わりの形でありその内容ではないのだから。

 

実際私の場合の目標はざっくりと、”より良い死”か(と)”楽しくて幸福な生活”であるので死ぬために生きるといって直ぐに自死を選ばないのはこれが理由である。

そして当然ながら死ねる理由を見つけるか、”楽しくて幸福な生活”が送れないと判断したとき、私は死ぬだろう。

 

”より良い死”とは、私の中にある人の役に立ちたいといった願望が強く出ている。もし仮に私の命と引き換えに親しい人間が助かるなりするならば私は喜んで一歩前に出たい。私と親しい人間のほとんどは私よりも価値があると考えているし、他に役に立てるようなことがないのでね。

綺麗ごとと言われてしまえばそれはそうだが、純粋に役に立ちたいだけ。

 

”楽しくて幸福な生活”とはそのままではあるが”一切の不自由がないこと”とはだいぶ違う。楽しさのためには挑戦が必要だし思い通りに行かないことも必要と信じている。なので基準としては随分緩いし、そもそも自分のことなので柔軟に変化しても良いと思う。

話の最初に戻るが、推奨してしまった理由としてはこの考えができるからであるところが大きい、自分勝手にでよい、辛いことからいつ逃げて終わらせてもいい。そういったところが”楽”なのだ。

 

これは本当に自分勝手で、すなわち全てにおいて責任を負えないということになる。責任を負えない者はそのうち何もできなくなるし誰も居なくなるのでそこが終わりだと、そう考えている。でもそれまでの間幸せに生きられるのならばそれでよい。本当に自分勝手で愚かではあるが。