しあわせなせかい

皆自分の世界を描いて構築して実行していく。私自身そばにいるが決してその世界にはなれない。たとえるなら、これから絵を描かれようとした画用紙に乗っかっている邪魔な埃のようなものだ、誰もその上から絵の具を乗せようとしないので払われるのがお決まりだろう。今も向こうの部屋で楽しそうな会話が聞こえる、そこに私は行けない。行っては、そんな気がする。

友好的に接し、友人として、知り合いとして、そういう風にかかわっていくすべもあるのだろう。しかし、私はそれができない。そも友人とは?愛とは?損得勘定のみで測れないそういった関係はどのようにして出来上がるのか?私にはそこが欠けている。勿論、損得勘定に当てはめることもできるのであろうが、それは一部を当てはめただけであってすべてではないのだろう、でもそれがわからない。損得勘定以外の他すべてがわからない。祝福とは?如何にして得られる?
こういった問答がすでに意味をなさないほどに私は遠くにいることもすでに分かっている、でもどうしてか憧れてしまう。どうしようもないのに、私は向こうの部屋に帰れない。誰かに止められたわけでもなく、自分でそう決めてしまっているのだ。もう手遅れだ、私は私の世界を作れない。画用紙を用意しても絵が描けない、筆を持つことを諦めてしまっている。そんな人間、どうして救われようか。結局のところ、自業自得なのだ。自らの精神性に原因があることも、ずっと前から分かっていた。解決に移さなかったのは己がもう終わっていたことに気が付いていたからだ。つみなのだ。どうあがいても雪ぐことはできない。

皆が美しい、私はその輝きがたまらなく好きだ。しかしそれは同時に私に光を当ててしまう、私のどうしようのない部分に、光を。

しかしその輝きにさらされようと、その輝きに身を焼かれようとも私はその輝きを守りたい。守るためだったらなんだってするし、私の命さえ惜しくない。皆の描くこれからのために私はどうなってもよいのだ。だから、その時までせめて傍に。それが私の願い。