やめるとあきらめる

眠さ故か疲れか、もしくは深夜の勢いか。生きることについてあきらめることを他人に推奨してしまった、酷く後悔している。

これは私自身に適応されているものであって一般的な人間の価値観にはそぐわないし、あのような場で話すことでもなかった。大いに反省している。

 

それに、おそらくではあるが意味が正しく(?)伝わっていない。だって、「生きることをあきらめば楽になるよ」だ。これではくたばってしまえと言っているようなものじゃないか。あまりにもひどい。

 

本人や誰かに見られることを期待しているわけではないが説明させてほしい、私自身がどういう考えで死に向かいゆくのかを。

ちょうど、どこかに残しておきたいとも思っていたところだし。

 

私の考えではおおよそ一般的な人間は”生きるために”生きているのだと考えている。

”生きるために”とはつまり、生存のために心身の健康に気を使い明日のために今日働き、明後日のために明日働くといった、継続を前提とした毎日を送っているものだと思う。この継続が、継続のための日々が生きることと考えた。

 

そして、私の話した生きることをあきらめることとはつまり、死ぬために生きるという事で、継続を前提とせず、終わりに向かってどうやって進むかといったものだ。そして終わりとはもちろんいつやってくるかは分からない。だから日々が人生最後の日だと思って生きているし、自分でそうしてもいいと思っている。

これは決して悲観的なものではなく、定められた目標に向かってそれをいかに達成するかというものであると考えてほしい。死とは終わりの形でありその内容ではないのだから。

 

実際私の場合の目標はざっくりと、”より良い死”か(と)”楽しくて幸福な生活”であるので死ぬために生きるといって直ぐに自死を選ばないのはこれが理由である。

そして当然ながら死ねる理由を見つけるか、”楽しくて幸福な生活”が送れないと判断したとき、私は死ぬだろう。

 

”より良い死”とは、私の中にある人の役に立ちたいといった願望が強く出ている。もし仮に私の命と引き換えに親しい人間が助かるなりするならば私は喜んで一歩前に出たい。私と親しい人間のほとんどは私よりも価値があると考えているし、他に役に立てるようなことがないのでね。

綺麗ごとと言われてしまえばそれはそうだが、純粋に役に立ちたいだけ。

 

”楽しくて幸福な生活”とはそのままではあるが”一切の不自由がないこと”とはだいぶ違う。楽しさのためには挑戦が必要だし思い通りに行かないことも必要と信じている。なので基準としては随分緩いし、そもそも自分のことなので柔軟に変化しても良いと思う。

話の最初に戻るが、推奨してしまった理由としてはこの考えができるからであるところが大きい、自分勝手にでよい、辛いことからいつ逃げて終わらせてもいい。そういったところが”楽”なのだ。

 

これは本当に自分勝手で、すなわち全てにおいて責任を負えないということになる。責任を負えない者はそのうち何もできなくなるし誰も居なくなるのでそこが終わりだと、そう考えている。でもそれまでの間幸せに生きられるのならばそれでよい。本当に自分勝手で愚かではあるが。